『人生論ノート』三木清(角川ソフィア文庫、新潮文庫)要約

幸福

過去の哲学者にとって、幸福が倫理の中心問題であった。ストア主義は幸福のための節制を説いた、アウグスティヌスやパスカルも人はどこまでも幸福を求めるということを哲学の基礎とした。幸福について考えないことは現代人の特徴である。幸福について考える気力を失うほど不幸であるか、幸福を考えることが不道徳だと感じるほど不幸なのではないか?しかし、幸福を知らない人が本当の不幸が何なのか理解できるだろうか?

良心とは幸福の要求である。幸福の要求ほど良心的なものはない。以前の倫理学は幸福の要求がすべての行為の動機だということを共通の出発点にした。幸福のない倫理は、どれだけ論理的だったとしても虚無主義にしかならない。

幸福はただの感性的なものではなく、主知主義と倫理上の幸福説が結びつくことを思想の歴史が示してる。現在の反主知主義は幸福説を拒否することから出発している。

幸福は徳に反するものではなく、幸福そのものが徳である。他者の幸福について考えなければならないが、自分の持っている幸福以上の善いことを他者に与えることができるだろうか?

「人格は地の子らの最高の幸福である。」というゲーテの言葉は完全な定義である。幸福になるということは人格になるということである。幸福は肉体的快楽と精神的快楽、活動と存在、どの中にもある。人格は肉体でも精神でもあり、活動でも存在でもある。また、人格はそれらの複合作用により形成されるものである。現代は人格の分解の時代であり、これは逆に幸福が人格であるということを証明する。

懐疑について

懐疑は知性の一つの徳である。懐疑は人間特有のものであり、人間的な知性の自由さは懐疑のうちにある。モンテーニュの最大の知恵はその懐疑に節度があるということだ。真の懐疑者はソクラテスであり、懐疑が無限の探究だということを示した。

真の懐疑は成熟を示すものである。方法についての熟達は教養の最も重要なものだが、懐疑の中に節度があることが最も教養的なことである。

懐疑は精神の習慣性を破るものであり、それは知性の優越を現している。確実なもの、つまり目的は形成されたものであるが、原理は不確実な根源であり、懐疑はその根源へ関連づけることで確実なものを導く方法である。懐疑によって形成された人生は確実なものである。

虚栄について

虚栄は人間的自然の中の最も普遍的で固有な性質である。人間の生活は実体のないものでありフィクショナルなものである。つまり、人生はフィクション=小説である。人生の実在性は物的なものではなく、小説の実在性と同等で、実体のない人生がどうやって実在性を持つかということが根本問題となる。

人間的なパッションはヴァニティ=虚無から生まれ、その現象において虚栄的である。人間的創造は虚無の実在性を証明するためにある。虚栄によって滅亡しないために、人は毎日の生活において虚栄的であることが必要であり、それが人生の知恵である。

虚無の実在性を証明する創造的な生活によって虚栄をなくすことができる。創造はフィクションを作ることであり、フィクションの実在性を証明することである。

名誉心について

どんなに厳格な人も名誉心を放棄しないだろう。ストイックというのは名誉心と虚栄心を区別して、後者に誘惑されない人のことである。虚栄心は社会を対象にするが名誉心は自己を対象にし、名誉心は自己の品位についての自覚である。ストイックは本質的に個人主義者であるが、その品位が名誉心に基づく場合、その人はよき意味における個人主義者である。

人間の条件について

自己は虚無の中に浮く一つの点である。生命は虚無ではなく、虚無はむしろ人間の条件である。生命とは虚無を搔き集める力であり、虚無からの形成力である。虚無の集積によって作られものが虚無ではない。

私は自己は世界の要素と同等なものには分解されず、世界の異なるものとしてあると考える。世界が人間の条件であることによって虚無はそのアプリオリである。世界のものは、虚無であるものとして人間の条件である。

虚無は人間の条件あるいは人間の条件であるものの条件なので、人生は形成であるといことが導き出される。自己は形成であり、人間は形成されたものであり、世界も形成されたものであるから、それは人間の生命にとって現実的に意味のある環境となる。

生命は関係でも関係の和でも積でもなく、虚無から形成された「形」である。古代哲学は実体概念いよって思考し、近代哲学は関係概念または機能概念によって思考したが、新しい思考はそれら二つの総合として「形の思考」でなければならない。

現代人はアノニムなだけはないアモルフな無限定な世界に住んでいる。テクノロジーや交通の発展はすべてのものを関係づけ実体的なものを分解し、かえってそれを厳密に限定した。しかし、現代の世界は限定され尽くされた結果、形としてはかえって無限定なものになっていて、それが現代人の無性格につながっている。

孤独について

孤独には美的な誘惑があり、味わいがある。孤独の中のより高い倫理的意義に達することが重要である。

孤独によって私は対象の世界を全体として超えている。孤独な時、人は物から滅ぼされはしない。孤独を知らない時、人は物において滅ぶ。

瞑想について

瞑想は甘美であり、人はそれを欲する。

魅力的な思索は瞑想のミスティックで形而上学的なものに基づいている。すべての思想は、本来、甘いものである。

瞑想は甘美なものであるから人を誘惑する。だから、真の宗教はミスティシズムに反対する。瞑想がその甘さに誘惑される時、それは夢想か空想になる。

利己主義について

私たちの生活の原則はgive and takeであり、意識的でなければ利己主義者にはなれない。利己主義者は自分の自意識に苦しめられる。

実証主義は本質的に非常であり、その果てが虚無主義である。利己主義者は中途半端な実証主義者であり、自覚のない虚無主義者である。利己的であることと実証的であることは自己弁護のため、他社攻撃のため入れ替えられる。

利己主義者は期待しない人間で、信用もしない人間なので、常に猜疑心に苦しめられる。

すべての人間が利己的だとする社会契約説は、想像力のない合理主義が生み出した。社会の基礎は契約ではなく期待であり、期待の魔術的拘束力によって社会は構築される。

秩序について

一見、無秩序に見えるものの中にこそ秩序は存在し、外見的なものよりも心の秩序が大切であり、そこには温かさと生命の存在がある。

秩序は常に経済的なものであり、最小の費用で最大の効率をあげるという経済原則は秩序の原則でもある。節約は秩序尊重の一つの形式であり、大きな教養そして宗教的な敬虔に近づく。節約は倫理的な意味も持ち、無秩序は多くの場合浪費から起こる。心の秩序は金銭の使用にも関連する。

心の秩序は知識だけではんく、能力=技術の問題である。このことが理解され、その能力や技術が獲得されなければならない。ソクラテスは技術の比喩を用いて徳は心の秩序だと言った。

道具技術から機械技術への変革のようなものが道徳の領域にも要求される。「作ることによって知る」という近代科学の実証的精神が、道徳においても必要である。

仮説について

生活は事実であり、経験的なものであるが、思想には常に仮想的なところがある。考えるということは生活の一部分であるが、それが生活から区別されるのは考えるということの中に「仮説的に考える」ということが本質的に存在するからである。

確実なものは不確実なものによって生まれるが、その逆ではない。確実なものは形成されるものであり、この形成する力が仮説である。

人生も仮説的なものであり、それはそれが虚無につながるためである。人々はそれぞれの仮説を証明するため産まれてくる。だから人生は実験である。人生は小説家の創作行動に類似し、その仮説は単なる思惟ではなく、構想力あるいはフィクションを作る力に属する。論理的意味でなく存在論的意味において人生の仮説は不定なもの、可能的なものである。人間の存在は虚無を条件とするだけはなく虚無と混合されている。その仮説の証明は小説と同じように創造的形成=実験でなければならない。

常識を思想から区別するのは、それには仮説的なところがないことである。常識はすでにある「信仰」であり、信念はいらない。

娯楽について

生活を楽しむことを知らねければならない。それが「生活術」であり、技術であり、である。生活の技術によって、どこまでも生活の中にいて生活を超えることによって生活を楽しむことが可能になる。

娯楽は、他の仕方における生活である。かつては宗教的なものと祭りだけが娯楽であった。近代的生活の分裂から娯楽の観念が生じた。生活の一部分であるはずの娯楽が生活と対立させられている。近代的生活は非人間的になったが、その生活に苦痛を感じる人が求める娯楽も非人間的なものでしかない。

祭りは他面の秩序であったが、現在では生活と娯楽は対立している。その根源に現代の秩序の思想の欠如がある。

パスカルは、より高い秩序から見ると、生活のあらゆる行為は、真面目な仕事も道楽も全て余技でしかないと考えた。この思想に回帰することが生活と娯楽の対立を払拭するために必要である。娯楽の概念の基礎にも形而上学がなければならない。

現代の文化の堕落の原因の一つが、文化に対する専門外の娯楽的な接し方であるといえる。現代の教養の欠陥は、教養が専門とは別の娯楽の形式によって求められることが原因となっている。「娯楽を専門とする人」が出現し、純粋な娯楽が作られ、娯楽は生活から離れてしまった。そして、一般人にとって娯楽は参加するものではなく、ただ外から見て享楽するものになった。

しかし、本来は、娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。それらが人格的統一をもたらす必要があり、生活を楽しむこと=幸福がその際の根本概念でなければならない。娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならず、また、生活の技術は生活の芸術でなければならない。娯楽は生活の中にあって生活のスタイルを作るものである。娯楽はただ消費的・享楽的なものではなく、生産的・創造的でものでなければならず、単に見て楽しむだけではなく、自分で作ることによって楽しむことが大切である。

体操とスポーツだけは生理に働きかける「健全な娯楽」であり、私は娯楽の中でそれだけは信用できる。それは身体ではなく精神の衛生である必要がある。

生活を楽しむ人はリアリストで、技術のリアリズムを持っていなければならない。本当に生活を楽しむには、生活において発明的で、特に新しい生活意欲を発明することが重要である。それができる人はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である。

希望について

運命というものの符号を逆にしたものが希望である。人生は運命であり、希望でもある。人間は運命的な存在なので生きているということが希望を持っているということである。

生きることは「形成する」ということであり、希望は生命の形成力である。我々の存在は希望によって完成へ向かう。希望による形成はからの形成という面があり、運命とはこの無ではないか?希望は無から生じるイデーによる力である。

旅について

旅に出るということは、日常の生活環境や習慣的な関係や行動から逃れることである。旅の嬉しさとはこの解放の嬉しさである。人生から脱出するために旅に出る人もいる。なので、旅の対象は自然や自然的生活となる。旅は人々に漂泊の感情を抱かせる。そこに旅の感傷がある。

漂白の感情は移動の感情であるが、むしろそれは宿に落ち着いた時に感じられる。短距離の一泊の旅であっても人はその「遠さ」の感情を味わう。旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである。旅の中で人は浪漫的になり、また浪漫とは遠さの感情である。

旅は絶えず過程であり、その途中を味わうことができない人は真の旅の面白さを知らない。私たちは日常生活では常に到達点や結果のみを問題とするが、そこから脱出する旅は本質的に観想的なものであり、それが旅の特色である。人生に対する旅の意義はそこにある。旅において人々は純粋に「見る人」になることができ、日常の既知のものや自明のものとして前提にしていたものに対して新しい驚異や好奇心を感じる。旅は経験であり、教育でもある。

「どこからどこへ」ということは人生の根本問題であり、人生は未知のものへの漂白である。「どこへ行くか」という問いは、「どこから来たか」を問わせる。過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じる。漂泊の旅はノスタルジアを伴うのと同様に人生の行路は遠く感じるが、だからこそ人は夢見ることや想像をやめないだろう。観想によって、旅は人生を味わわせる。そして、距離や長さに関係なく旅で出会うのは自分自身である。旅は人生そのものの姿である。

旅の真の自由は「ものにおいて」の自由であり、動即静あるいは静即動に徹した人だけが真に旅を味わうことができる。その人は人生においても真に自由な人である。人生が凝縮されたものが旅である。

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商品詳細

人生論ノート 他二篇
三木清
KADOKAWA、東京、2017年3月25日
648円、304ページ
ISBN: 9784044002824

  • 人生論ノート
  • 語られざる哲学
  • 幼き者のために
  • 解説 岸見一郎

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